もはや、芸能界で知らない人は居ないポジションに君臨しているタモリさん(°∀°)
でもタモリさんって実は遅咲きで、業界的にもかな〜りの異色な経歴の持ち主。
今回はタモリさんの若い頃の数奇な人生に触れてみたいと思いまっす(*ˊᵕˋ*)
Contents
タモリの子供時代が波瀾万丈すぎる!
終戦の年、1945年の8月22日に生まれたタモさん。
本名:森田一義(もりた かずよし)
出身:福岡県福岡市南区
身長:161cm
血液型:O型
【学歴】
福岡市立西高宮小学校
福岡市立高宮中学校
筑紫丘高等学校
早稲田大学文学部哲学科中退
両親がふたりとも祖父母の養子…特殊な生い立ち
世にも奇妙な?タモさんのルーツ。
タモリさんの祖父母は、子どもに恵まれなかったため、それぞれの血を受け継いた子どもを養子に迎えて結婚させようと計画したそうで。
祖母は自身の弟(祖母は12人兄弟の長女で、弟とは親子並みに年が離れていた)春吉さんを養子に、祖父は姪っ子(妹の娘)富美子さんを養子縁組しました。
祖母の弟✖️祖父の姪っ子から、タモさんとタモさんの姉が生まれたという…
今の感覚だったらちょっと理解しずらいですよね;
「両養子」という昔の習慣で、田舎では珍しくなかったみたい。
タモさんは、1988年、「徹子の部屋」に出演した時、「中学生程度の学力では理解できない。高校卒業程度の学力が必要ですね」と、自身の家系について言及(°∀°)
愛無き家庭…3歳の時に両親が離婚、祖父母に育てられる
春吉さんと富美子さんは、タモさんが3歳の時に離婚…
タモさん曰く、「お母さんは、お父さんに対して愛情はなかったが、祖父母に対する恩義で結婚した」と話したそう…しかもこのお母さん、その後も2回結婚され計6人出産されてます((((@Д@))))
子供の立場(タモさん)からしたら、母親からそんなこと聞かされて、とても寂しい気持ちになったんじゃないかな(T_T)
幼いタモさんは、3歳上のお姉さん共に、祖父母と暮らすことに。
別居しているお父さんがたまに家に来ると、嬉しさのあまり饒舌になったタモさんに対して、お父さんは「お前はよく喋るなぁ、うるさいよ」と、心無い言葉…
タモさんは「それから親父が嫌いになった。この男、俺と違う」と思ったらしい。
頭脳は大人!?4〜5歳で精神年齢のピークを迎える
タモさんが4〜5歳くらいの時、幼稚園に通う予定があったそうで。
幼稚園がどういう所なのか知りたくなったタモさん、入園前に、なんと‼︎
子どもの足で20分以上かかる幼稚園までの道のりを一人歩いて下見に行ったらしいw
幼稚園に到着すると(ちゃんと行き着くのもすごいw)、園児たちが童謡「ギンギンギラギラ夕日が沈む♪」を歌いながらお遊戯している場面に遭遇。
「なんで、あれが楽しいんだ。あれをやんなきゃいけないのか。」
当時4〜5歳のタモさんの感想が幼児じゃないw((((@Д@))))
家に帰ってから、「幼稚園は絶対に行きたくない」と祖母に告げたんだってw
理由を尋ねる祖母に「見てきたの。歌ってお遊戯してた。僕はあんなこと絶対やりたくない」と断固拒否した幼きタモさん。
すると祖母は穏やかに「じゃあいいよ、行かなくて」と応じてくれたらしい^^
しかし、幼稚園に行かない選択をしたタモさんは暇すぎて苦しむ羽目にw
「最初は後悔しましたね。今のようにゲームもなければパソコンもない。暇で仕方ない。だから玄関先に座って、道行く人を眺めて過ごしました。」
「このふたりの関係はなんだろう?」と想像したり。わからないと後を付いて行ったこともありました。」
タモリさんは、“観察が趣味”だった自身の幼少期について、
「自分の精神年齢がいちばん高かったのは、4歳から5歳にかけて。そんとき、俺はすごかったですね、やっぱり。」
「4,5歳でピークを迎えたよね。先に老人になってますね。4,5歳のときにはもう、すでに老人だった。あとはもう惰性ですね。絶対に昇ることはない」
と幼き日々を振り返っておられます(°∀°)
小学校時代の“楽しみ”と“厳しい世の中”と失明事件
小学校に入学すると、退屈からの解放&一人ぼっちに飽き飽きしていたタモさんは、同級生たちと子どらしい遊びをめいっぱい楽しんだって^^
当時のタモさんは「一休さん」のトンチ話をするのが上手く、音楽も好きで、よく童謡を歌っていたらしい(*ˊᵕˋ*)
その一方、小学2年生では学級委員長を務める秀才な場面も。
自分で教壇に立ち、クラスメイトに対してプレゼンしたところ、先生から称賛され、人前に出る楽しさを覚えたそうです(°∀°)
僕にとっての初舞台は教壇だった」と振り返るくらい^^
小学2年生の時点で、“司会”の才覚がすでにあったのかも(°∀°)
秀才でちょっと変わったタモ少年は、夜8時からラジオ番組「浪曲天狗道場」、夜9時からは、「NHKニュース」の解説を聴きながら眠りにつくのが日課だったそうw
意味が分からないのが面白かった、「気象通報」、「FEN」(昔の米軍放送網)、中国の「北京放送」をよく聴いていたらしい。どんな小学生やねんw
特に「北京放送」は、後のタモさんのネタ「7カ国語でバスガイド」など、外国語モノマネに繋がるんですよ、すごいですよね!!!w
サングラスの理由は小学3年生の時の右目の失明
タモさん小学3年生の学校帰りに悲劇が…
友達とふざけながら歩いていたところ、電柱のワイヤーに顔をぶつけて、針金の結び目が右目に直撃((((@Д@))))
入院は免れるも、右目は「完全に失明」、2ヶ月も学校を休んで治療したそうな…
親友の裏切り
小学4年生の時には、10人くらいに囲まれ殴られたことがあったそうです(°∀°)
原因は、タモさんが親友だと思っていた同級生の裏切りだった!
なんと、ガキ大将的な男子に何やら密告していたそうで((((@Д@))))
この事件以降、タモさんは、世の中を恨むようになったらしいw
そして、友達付き合いも無くし、幼児時代以来の“ぼっちな日々”に逆戻り…
とまぁ、一時期は相当、ひねくれて殻に籠ったみたいだけど。
“表現することの面白さ”にハマってたタモさんは、小学校の卒業式で漫才を披露するくらいの社会性に復活しました^^
キワモノ芸人の前身!?マニアックに目覚めた中学時代
ちょっと変わったタモ少年の個性がどんどん開花するのが中学時代(°∀°)w
牧師の仕草や喋り方を観察するため教会通い
中学2年生の時。
R.H.カルペッパー牧師の身振り手振りとしゃべり方が面白かったそうで(°∀°)
毎週末、近所の「平尾バプテスト教会」に通ってたらしい。2年間も!
雨の日も風の日も足繁く教会に通うタモ少年を見て、カルペッパー牧師は「なんと信心深い若者か」と感激されるほど、熱心な観察ぶりw
この経験は「笑っていいとも!特大号」の「タモリ牧師の説教」に活かされてますw
中学の授業中に聞いてないふりしてちゃんと答える遊び
暇を持て余したタモさんの遊びw
授業中、窓の外を眺めたりして、“授業に集中してないアピール”をするタモ少年。
あからさまな態度で先生に「こいつ聞いてない!当てたろ」と思わせ、
指名されたらスマートな回答で先生の期待を裏切る、というひねくれた遊び(*ˊᵕˋ*)
や〜マニアックw
賞賛されるためのコツ
中学2年生の時に弁論大会に立候補したタモ少年。
「優勝するぞ!」と張り切って、「放射能の恐ろしさ」をテーマしたスピーチで挑みましたが、入賞すら出来ず((((@Д@))))
「スケールの大きいことを言う人がいましたが、もっと身近なテーマで」とほぼ名指しで弁論大会をまとめる教師から批判を受けたタモ少年…
そこでのタモ少年の着眼点がすごい!!
「ふーん、先生の考え方わかったわ」と何やらコツを掴んだそうです。
翌年に再び立候補して、今度は「もっと挨拶をしよう」をテーマにスピーチ。
そして見事、優勝!!
この弁論大会で優勝するコツは、スピーチの内容や表現力の質ではなく、いかに先生の好みに合わせられるかが重要だと気づいたらしい。
なんちゅう鋭い洞察力! あくまで優勝が目的だったタモさん。
名指し批判でショックを受けたり「フェアじゃない!」とキレたりせず、淡々と自身が立てた仮説(先生の攻略法)を実践して証明する。
中2でとんだ切れ者に成長してるタモさんすごー((((@Д@))))
高校時代とジャズ
タモ少年は秀才で、中学卒業後は県内有数の進学校、福岡県立筑紫丘高校に入学。
「剣道部」と「吹奏楽部」に入部したらしい。
(吹奏楽部では「トランペット」兼「司会」を担当)
ジャズとの出会い
高校3年の頃、在日米軍向けに放送されていたラジオ・FENを聴いていた時。
ジャズドラマー、ART.BLAKEYの「Moanin’」が流れると、タモさんに衝撃が!
タモさんは、音楽好きな父親や、ピアノを習っていた姉の影響もあって、幼い頃から様々なジャンルの音楽を広く聴いていたみたい。
音楽は“好きな方”だったタモ少年が、Jazz『Moanin’』に触れた瞬間、「あ、これだ、俺」と自分に“しっくりきた”んだって。
しかし周囲でジャズを聴く人は皆無で、誰とも共有・共感できなかったタモさん。
その後、早稲田大学にジャズサークル「モダンジャズ研究会」があることを知ったタモさんは、早稲田大学を志望動機にしちゃうほどの情熱ぶり(°∀°)w
タモさんって、コミカルなんだけど興味の対象がなかなか高尚ですよねぇ(°∀°)
JAZZ愛は本物!2浪して…早稲田大学時代
高校3年生で、ジャズ愛に目覚め、“モダンジャズ研究会”がある早稲田大学に進学したい!!と2浪しても諦めず有言実行したタモさんはすごい!
1965年、タモさん20歳。
そんな苦しい大学受験の最中も遊び心を忘れないタモさんに乾杯(°∀°)
受験までの1ヶ月間、東京の目黒に住む従兄弟のアパートに居候していた頃。
近所に中国人の姉妹が住んでいたらしく、その家の前でデタラメな中国語を大声で
叫び、“同郷の者が来た”と思って出てくる姉妹の反応を楽しむというものw
青年ながら、やってることピンポンダッシュと変わらんやんw
「モダンジャズ研究会」の洗礼
早稲田大学の門をくぐり、念願の「モダンジャズ研究会(通称ダンモ)」に入部!
新入生に待ち受ける、親睦と称して全衣類を脱ぎ捨てるという通過儀礼(((@Д@)))
(新入生たちの)困惑の嵐の中、飄々と自らストリップを始めたタモさん、「こいつ腹がすわっている!」と先輩方と一気に打ち解けた度胸と手腕はさすがですっw
ちなみに、「タモリ」の呼称はここで生まれたんだって^^
トランペット奏者から司会者へ転向させられる
タモさんはトランペットを演奏していたのですが。
サックス奏者でマネージャーだった先輩から、
「マイルス(デイヴィス)のトランペットは泣いているが、お前のトランペットは笑っている」と酷評をくらった挙句…
MCが面白いから!ということでマネージャー兼司会へ転向させられることに。
タモさんは不本意だったでしょうが、この裁定に腐ることもなく、実際にマイルス・デイヴィスが後に出した「マイルス・スマイル」というレコードジャケットを見て、「マイルスも笑ってるじゃないか!」と先輩とは笑い合える仲なんだとか^^
学費未納で早稲田大学を除籍処分に
大学2年生の5月、同級生3人で旅行しようということになり、最初に仕送りが届いたタモさんが旅費を立て替えたのに、結局、友人2人はお金を返さず((((@Д@))))
貸したお金が返ってこないタモさんは学費が払えず、大学3年生で「学費未納のため抹籍」という処分を受ける羽目に…これ怒るところですよ!((((@Д@))))
なのに、タモさん「あいつらのおかげです。あいつらとはいまだに付き合ってますけどねぇ」と、ゆるふわな反応…
自我超越?((((@Д@))))
早稲田大学中退後、朝日生命の営業マンへ
中退後も、「モダン・ジャズ研究会」のマネージャーは継続していたタモさん。
その収入がケタ違い!
当時の大卒の初任給が2万5千円ほどの時代、演奏旅行がある夏場は月30~40万、
並の月でも5万円は収入があったそうで((((@Д@))))
「朝日生命」の優秀な営業マン
大学時代に父親が亡くなり、ほどなくして祖母が亡くなると、祖父の面倒を見なければならなくなったタモさんは地元福岡に戻ります。
「堅気に働け!」という親族の強い勧めで「朝日生命」に外交員として就職。
営業マン時代は「喋りすぎて信用されずダメだった」とタモさん本人はご謙遜も、
当時を知る元上司の話では、タモさんは何度も「優秀者招待旅行コンクール」に入賞していたらしいので、営業成績はかなり優秀だったみたいですよ〜
そして社員旅行のバス車内では、お馴染みニセ外国語でガイドをしていたらしいw
おつぼね様の紹介で、2つ上の先輩と結婚!
厳しい営業の世界で生きぬく為、勧誘員のオバさま方に“程よくゴマスリ”したところ、「あんた良いコ紹介してあげるよ!」と引き合わされたのが奥様、春子さん(°∀°)
過去の週刊明星インタビューで「自分は結婚なんて不向きだと思っていたけど、先輩に煽られて嫁さんを貰っちゃった」とサラッと馴れ初めをカミングアウト。
出典:週刊明星
「ひどい亭主だよ、朝帰りするし、家に連絡しないし、自分が悪くても謝らない…」
「たぶん女房は苦労してるんじゃないかなぁ」
・・・そうですね〜〜〜〜(°∀°)
結婚後も職を転々、“根無草”タモリ
二人が出会った職場、朝日生命は3年であっさり退職…
その後は旅行会社、ボーリング場支配人、警備員、絵画のヌードモデル、蛇使いw
まぁ、コロコロ仕事が変わる変わる((((@Д@))))
結婚して腰を据えるどころか、将来が心配になるレベル(´д` 😉
やっぱタモさん個性が強すぎて、勤め人そのものが向いてなかったのかな。
奥さんはかなーり苦労したことでしょう…;
運命の出会い、開かれていく芸能への道
世帯持ちとは思えない暮らしぶりのタモリさん(°∀°)
1972年、大学時代の友人が泊まっていたタカクラホテル福岡で深夜まで飲んだ後、
帰宅するため友人の部屋を出たところ、別の客室からどんちゃん騒ぎが聞こえて…
深夜2時。半開きになっていたドアの隙間から覗くと、虚無僧(こむそう)に扮した誰かが、伝統芸能を真似てふざけていたそうでw
「俺と同じじゃないか!俺は呼ばれている!」と直感するタモさんw
次の瞬間、歌舞伎口調で歌い中腰で踊りながら見ず知らずの宴に乱入((((@Д@))))
山下洋輔、中村誠一、森山威男との出会い
その場に居合わせたのは、山下洋輔さん(ジャズピアノ)と中村誠一さん(テナーサックス)と森山威男(ドラムス)の3人だった。
ちなみに虚無僧やってたのは中村さんねw
タモさんは「ヨォーッ」と歌舞いながら中村さんに近づくなり、突然中村さんが被っていた籐のゴミ箱を奪い取り、自分が被ると一緒に踊り始めたそうで(°∀°)
中村さん曰く、「少し開いていたドアから、いきなり(タモリが)歌いながら入ってきたけど怖くはなかった。一瞬、誰?と思っただけ。そのままふたりで踊ってw音楽でいきなりジャムセッションしてうまくいったのと一緒」
と、当時のカオスな状況を後に解説w
思わぬ事態に仰天した中村さんは、デタラメな韓国語で乱入者を捲し立ててみた!
すると、タモさんもデタラメ韓国語で、勢い3倍返しで応戦wしかも上手いw w
中村さん驚愕w
その後は中国語にドイツ語、イタリア、フランス、英語からスワヒリ語と、デタラメ外国語の応酬合戦に発展(*ˊᵕˋ*)
笑い過ぎて呼吸困難に陥った山下さんや森山さんたちと、夜明けまで騒ぎは続き…
夜が明けると、黒ブチ眼鏡に白ワイシャツ、黒ズボンにズック靴の見知らぬ男は、急に真顔になり、「では」と言ってドアへと歩いて行く…
その後ろ姿に向って、浴衣もはだけ、パンツもずり落ちた中村さんが呼びかけた。「失礼ですが、お名前は何とおっしゃるのですか!」
男はドアに手をかけたまま、振り向いて「モリタです」とだけ告げた…w
タモリと山下洋輔を再び引き合わせたジャズ喫茶「COMBO」
連絡先すら交換せず「モリタ」とだけ言い残し、その場を去ったタモさんでしたが。
半年後、再び“JAZZ”が山下洋輔さんとタモリを引き合わせる…
“衝撃の出会い”以来、山下さんはタモさんを探して博多のジャズ喫茶を片っ端から調べていたらしい(°∀°)
すると、或るジャス喫茶の「変人マスターでは」と言う情報が!
当時のタモさんは喫茶店で雇われマスターをしており、“ウィンナーコーヒー”を注文されるとコーヒーにウィンナー(ソーセージ)をぶっ込んでお出しする野蛮ぶりw
博多の老舗ジャズ喫茶「COMBO」なら、「博多のジャズ好きなモリタという、喫茶店の変人マスター」の手掛かりが見つかるのではと足を運んだそう(°∀°)
タモさんはこの「COMBO」の常連客で、オーナーの有田平八郎さんがその場でタモリさんに連絡し、二人は運命的再会を果たしたのです(≧∀≦)
「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が発足
山下さんが、新宿ゴールデン街の常連Bar「ジャックの豆の木」で、何度もタモさんの話をするものですから、「どんな人なの、会いたい!」とタモさんに対する期待値がどんどん膨らんだ挙句…
Barママ、柏原A子さんの提案で、山下さん、中村さん、森山さん(ドンチャン騒ぎメンバー)はじめ、赤塚不二夫さん、坂田明さん、筒井康隆さん、三上寛さん、長谷川法世さん、奥成達さん、高信太郎さん、長谷邦夫さん、南伸坊さんら、その他常連客で「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成((((@Д@))))
中村さんから上京のお誘いを受けたタモさんは、1975年6月「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパで購入された東京行きの片道切符を受け取り、再び東京へ!!
早稲田大学中退から、7年ぶりのことでした(°∀°)
「密室芸人タモリ」誕生
タモさんはBar「ジャックの豆の木」で、アントニオ猪木さんや松田優作さんのモノマネ、「ニセ外国語」、NHK教育テレビのパロディネタを披露(°∀°)
更には“常連客”の難関リクエストにお応えして…
「4か国語麻雀」
「中国のターザン映画に出演した宇宙飛行士が、宇宙船で空気洩れに苦しむ様子」
「アメリカの宇宙飛行士と中国の宇宙飛行士の絡み合い」
などなど、独特な即興芸を披露(°∀°)
“常連客”には作家の筒井康隆さんや劇作家の唐十郎さんなど、名だたる業界人が。
みんな揃って爆笑の渦に巻き込まれる異例の事態((((@Д@))))
ちなみに…
タモさんの即興芸はストリップで幕開け、裸族で踊り狂って終演を迎えるというヘビースタイルw
後に、この即興芸は「恐怖の密室芸」と呼ばれるように(*ˊᵕˋ*)
赤塚不二夫とタモリ
1975年の夏、「ジャックの豆の木」でタモさんの密室芸を見ていたのは既に、“ギャグ漫画家”としてブレイクしていた赤塚不二夫さん(°∀°)
ネタのあと、赤塚さんが直々に「君はお笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから出ろ。あてが無いならウチに来なよ」と声をかけたのです!
高級マンションでヒモ暮らし
千載一遇のチャンスなのに、タモさんは何故か乗り気ではなく何度も断ったらしい。
普通の人なら舞い上がっちゃいそうな状況なのにねぇ。やっぱ変わってるw
そして赤塚さんの情熱がすごくて、タモさんが根負けw
赤塚さんが当時住んでいた4LDKの高級マンションでのヒモ暮らしが、もうヤバいw
ベンツの450SLCを乗り回し、着るものは全て赤塚さんの私物、お酒は飲み放題、挙げ句の果てには、月3万円(現代の20~30万円)のお小遣い付き!((((@Д@))))
人間ダメになる“ヒモ番付日本一”の暮らしぶりw
ちなみに、タモ奥さんも一緒に居候!!!((((@Д@))))どんだけーー
赤塚不二夫のベッドはロッカー…
タモさんは「大金持ちの赤塚不二夫だもん、マンション幾つも持ってんだろ」と思って遠慮なくヒモ生活を謳歌していたそうですが(°∀°)
ある日、赤塚さんが新宿にある仕事場で生活していて、ロッカーを横倒しにして布団を敷いて寝ている真実を知ってしまいます((((@Д@))))
しかしタモさん、赤塚さんには何も言わずにヒモ暮らしを続けます。
決して、ヒモ生活を手放したくなかった貧乏根性ではありません!
その理由は、「(赤塚さんの暮らしぶりに)気づいたときはグッと込み上げるものがあったんだけど、ここでグッときたら居候道に反すると思って堪えましたね。」
赤塚さん自伝「赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ」タモさんのインタビューで告白。そして赤塚さんも「あれがなかったら、今のタモリはない。普通にペコペコする奴なら、こうはなってなかった」と、タモさんの生き様をよく褒めていたそうですよ^^
「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」でテレビ初出演!
やがて、Bar「ジャックの豆の木」のママを社長、山下洋輔さんを常務とするマネジメント会社「オフィス・ゴスミダ」が設立。
ちなみに「ゴスミダ」は、タモリさんのデタラメ韓国語w
タモリさんは所属タレントとなって、1975年8月、赤塚さんの番組「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」で遂にテレビ初出演しちゃいます!!
黒柳徹子、“素人”タモリに出演オファー!
タモさんの“成功の連鎖”は止まりませんっ(°∀°)
「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」を偶然見ていた黒柳徹子さんがタモさんに驚愕w友人だった赤塚さんに「今、出たあの人誰?」と聞くなり、すぐさま電話で「13時ショー」(「徹子の部屋」の前身)への出演が決まってしまうミラクル〜(°∀°)
テレビ初出演から1ヶ月の間に、タモさんは黒柳さんがメイン司会を務める「13時ショー」の「珍芸スターお笑い大行進」に、赤塚さんとふたりで出演((((@Д@))))
後のタモさん曰く、「新人なんて、とても出る番組じゃない。新人どころかテレビに2回出て、まだこの世界に入るかどうかも決めてない男が、2回目に「徹子の部屋」に出てたんですよね」
突然、あの黒柳徹子さんから直オファー来るとか、まずビビりますよね(°∀°)
「大胆というか、あんな正攻法な方でありながら、僕みたいな異端の人間を即座に出してくれるっていうのは…だからあれはインパクトが世間に大きかったですよね。恩人です」
タモさんは1977年8月に「徹子の部屋」に再出演すると、翌年の1978年から2013年まで毎年、「徹子の部屋」年末最後のゲストとして出演してたんですよ(°∀°)
マニアック「密室芸」から番組司会者へ…
デビュー当初は、「密室芸」でマニアックな層にバカうけしていたタモさん。
1980年になると、「ばらえてい テレビファソラシド」でインテリ要素も発揮(°∀°)
1981年には、「今夜は最高!」でメイン司会者を務めるほどに!!
この頃になると、「密室芸」は陰を潜めるようになっていたみたい(°∀°)
伝説の番組「笑っていいとも!」スタート!
1980年、夕方に生放送されていた主婦向けラジオ番組「だんとつタモリ おもしろ大放送!」でメインパーソナリティを務めていたタモさん。
“夜”の秘話などの電話投稿コーナーで炸裂するギリギリトークが主婦に大ウケw
そして1982年、伝説の帯番組「森田一義アワー 笑っていいとも!」の司会が決定!
当時のタモさんは“密室芸”あがりでまだまだ品格なんて皆無w
スタート当初の視聴率は低迷するも、ジワジワ人気を博し…
90年代半ばには誰もが知る(特に女子高生にウケてたw)国民的人気番組に成長!
「笑っていいとも!」最終回のタモリの言葉
惜しまれつつも、2014年3月31日に最終回を迎えた“いいとも”(T_T)
「笑っていいとも!グランドフィナーレ 感謝の超特大号」で、タモさん最後のスピーチが、当時の、今日までの生き様をご自身で振り返っておられるようで、しみじみしちゃいました(T_T)
お忙しいなか、感謝します。出演者、スタッフのおかげで32年間、無事やることができまして、まだ感慨というのがない。ちょっとホッとしただけで。来週の火曜日くらいからくるんじゃないかと思います。
あしたも、アルタに行かなければなりません、楽屋の整理がありますんで。
私物がいっぱい置いてあります。
皆さんのおかげで、ここまでくることができました。考えてみれば、(わたしは)気持ちの悪い男でしてね。こういう番組で以前の私の姿を見るのが大嫌いでしてね。気持ち悪い。濡れたしめじみたいな感じ。嫌~な、ヌメッとしたような感じで、いまだに自分の番組は観ません。
当時、ひねくれていまして、不遜で、生意気で、世の中なめ腐っていた。そのくせ、何もやったことがなかった。それが、亡くなった初代の横澤彪プロデューサーから(番組を)仰せつかりまして、だいたい3ヶ月くらいか半年くらいで終わると思っていたら、32年も続きまして。
生意気にやっていたんですが、長い間に…視聴者の皆さんはいろんなシチュエーション、いろんな状況、いろんな思いでずっと観てきていただいたのが、こっちに伝わりまして。
私も変わりまして、何となくタレントとして形を成したということなんです。視聴者の皆さん方からたくさんの価値をつけていただき、みすぼらしい身に、たくさんのきれいな衣装を着せていただきました。
そして、きょうここで皆さんに直接お礼を言う機会をいただけたことを感謝します。32年間ありがとうございました。お世話になりました。
名だたる芸能人達が、こんなに大勢集結する番組なんて今後ないでしょう…
まとめ
いかがでしたか?
今回はタモリの若い頃についてのリサーチでした。
タモさんの人生が濃厚すぎて!ボリュームたっぷりな記事になっちゃいましたw
幼い頃から大人のいろんな部分が見え過ぎて、大変だったろうなと思います。
ひとつ分かったコト…大切なのは、情熱を注げる“何か”に出会えることですね。
タモさんの場合はジャズ。そのジャズがご縁を結んで、今のタモリがあるんだもの。
長〜い記事を、最後までお読みいただき、ありがとうございました^^
オススメ→タモリの妻はサラリーマン時代の先輩、春子さん。オシドリ夫婦の今、“愛ある終活”
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