“スーパーおばあちゃん”タレント、デヴィ夫人(°∀°)
彼女は戦後の貧しい一般家庭で生まれ、最終的にインドネシアの大統領夫人になるという最強のシンデレラストーリーの持ち主!!
そんな“リアルシンデレラ”、デヴィ夫人の若い頃をリサーチいたしました!!
Contents
デヴィ夫人こと、根本七保子の極貧幼少期
デヴィ夫人の旧名・日本名は根本七保子(ねもと なおこ)といいます(°∀°)
出典:Twitter
お父様(兵七郎)、お母様(まさ)は共に日本人。
デヴィ夫人こと根本七保子さんは純日本人。弟さんがいて4人家族です^^
父は大工の棟梁でしたが器用貧乏な気質。収入が少なく、家庭は貧しかったそう。
足が悪い母に代わって家計を助けようと考えた根本七保子さんは、1955年(当時15歳)、学歴も家柄も関係ない女優を目指そうと決心をすると、「東芸プロダクション」に研究生として入団。
演技や舞踊などを見よう見まねで習い、エキストラとしてテレビや映画に出演し、お金を稼ぐようになったそうです。
家計を助けるために職業少女に
中学卒業後は、定時制高校に進学するも、エキストラだけでは収入が不十分だったため、「千代田生命保険会社」(現在のジブラルタ生命保険)に就職。
お昼休みの1時間は会社の近くの喫茶店でウェイトレスとして働き、土日もコーヒーショップのアルバイトと働きまくり、貧しい家計を支えたそうです…(T_T)
学校行きながら、3つ仕事掛け持ちって既に超人やー((((@Д@))))
最終学歴は定時制高校中退
ところが1956年にお父さんが他界。ますます家計が苦しくなった根本家。
根本七保子さんは止むを得ず高校を中退。母親を助けるべく馬車馬のように働き、家計を支えていたそうです。
アメリカ人宝石商ジェイムズベイカーとの出会い
1957年、17歳の時、アメリカ人宝石商のジェイムズ・ベイカー氏と知り合います。その方は、茶道や生け花、日本舞踊などたくさんの経験をさせてくれたそうです。
ジェイムズ・ベイカー氏に伴って赤坂にある有名高級Club「コパカバーナ」に出入りするようになると、オーナーだった長尾久子さんの目に留まり、「コパカバーナ」で働くことになります。
根本七保子さんの美しい顔立ちは勿論、努力家でホステスとしての立ち振る舞いも評価され、「プリンセス」と呼ばれて一目置かれる存在に。
高級Club「コパカバーナ」から“世界へ”
デヴィ夫人はコパカバーナで働いた当時を振り返り↓↓

と、語っているのですが。
実は、「コパカバーナ」で働いたのには、自立や家計を支えること以外にも、英会話習得という目的もあったそうで。
働きながら、英語を猛勉強する日々を送り、一流の外国人と会話を交わしながら、「いつか世界に飛び出し、星のように煌めく存在になりたい」と夢みていたのだそうです。
すんごい度胸ですよね。10代にして人類史上最強のメンタルw
凄まじくストイック!!
若かりし頃のデヴィ夫人、すでに只者じゃなかった((((@Д@))))
スカルノ大統領との運命的な出会い
1959年、19歳の時。旧帝国ホテルで友人と待ち合わせをしていた根本七保子さん。当時、インドネシアの初代大統領、スカルノ大統領が来日中で、同ホテルでパーティーをしていたそうです。その場で、スカルノ大統領の関係者に「大統領と一緒にお茶を飲みませんか?」と、声をかけられたとか。
いきなりそんなこと言われたらちょっと驚いてしまいますが((((@Д@))))
さすが後のデヴィ夫人…肝座ってるぅ。
そして、案内されるまま、本当にスカルノ大統領の隣に座らされたそうで…
デヴィ夫人は、スカルノ大統領との出会った当時について、

とお話しされていました。
コパカバーナで培ったエレガントな英語や所作が最大限に活かされたわけですね!!
なんかもう、人生を切り拓いてる感がすごい!!
スカルノ大統領からの招待でインドネシアへ
旧帝国ホテルでの運命的な出会いから、二人は文通する仲に。
19歳の一般人少女の文通相手がインドネシア大統領って凄すぎるw
スカルノ大統領は、「写真を送ってほしい」など紳士的にラブコール。
文通は3ヶ月ほど続いたそう。
そんな中、スカルノ大統領から「2週間程インドネシアに遊びに来ませんか?」と直々に招待されたのです。
正直、外国の大統領であるという不安はあったものの、根本七保子さんはインドネシア行きを決意。

滞在先のインドネシアでは、スカルノ大統領が日本の歴史に詳しかったことや、お互いの貧しかった幼少時代を語り合ううちに、打ち解けあい、より親密になったそう^^
スカルノ大統領からのプロポーズ
首都ジャカルタからプライベートジェットでバリ島の離宮に移動し、真っ赤なサンセットを二人で眺めていた時、突然の出来事でした。
大統領から、「わたしのインスピレーションとなり、力の根源となり、人生の喜びとなって下さい。」と言葉を贈られたのです。
突然のプロポーズに驚きながらも、七保子さんは「こんなに美しい言葉は、きっと今後の人生でもう聞くことはできない」と感銘を受けたそうです。
そして同時に「この方に選ばれたのだから、全身全霊でこの方に尽くそう。」と覚悟を決めたのでした。
19歳少女の2週間のインドネシア旅行は、なんと“嫁ぎ先”に変更…(°∀°)
大統領と結婚。根本七保子改め、デヴィ夫人へ
19歳でインドネシアの大統領と結婚した根本七保子さん。
メイド14人、庭師3人、護衛24人がつけられ、宮殿には七保子さんの巨大な肖像画が飾られるなど、大統領の寵愛を一身に受けたそうです。
正式に結婚はしたものの、この時はまだ根本七保子さんは日本国籍でした。
最愛の家族、母と弟との別れ
日本の勤労少女がインドネシア大統領夫人となったというウソのような本当のニュースは、瞬く間に日本中を沸かせました。しかし、それは決して良心的な報道ではなかったようです(T_T)
幼い頃から家族のために働き尽くしてきた根本七保子さんが手にした地位は、本当に素晴らしいもの。歩んできた道が間違いだったとは決して思いませんが、難しいですね…
現代ほど情報を自由に得られる方法もなく、真否もわからない。
面白おかしく脚色された娘の評判を信じた世間からの批判やマスコミの取材などで残されたお母様と弟さんの辛労は正に生き地獄だったことでしょう。
母と弟との別れがこんな悲劇になった原因は自身にある。「悔やみきれず、償いきれず、一生十字架を背負っていかねばならない」と、後のデヴィ夫人は語っています。
日本への未練を断ち切り、インドネシア国籍を取得
1962年、22歳で母と弟を一度に亡くし、肉親を失った根本七保子さんは、全身全霊で大統領の為に生きることを決心し、インドネシア国籍を取得しました。
Ratna Sari Dewi Sukarno(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)と名づけたのはスカルノ大統領。
Ratna=「宝石」Sari=「殿下」Dewi=「女神」
すごいw、インドネシア版、最強キラキラネーム(°∀°)v
軍事クーデターによるスカルノ大統領失脚
シンデレラストーリーの主役となったデヴィ夫人でしたが、穏やかな日々は長く続きませんでした。
結婚6年目の1965年9月30日、スカルノ大統領が軍事クーデターにより失脚し、幽閉されてしまいます。
当時28歳のデヴィ夫人はズボンを履いてベッドに入り、常に危険に備えていたそう。
夜中にゴーッという戦車の音が聞こえ、いつ宮殿に侵入してくるか分からない状況。
「有事の際は護衛も信頼できない。何分で窓から飛び降り、広大な庭を突っ切って塀を乗り越え、川に飛び込んで忍者のように竹筒をくわえて何時間息ができるか、そんなことまでシミュレーションしていました。」と後に語られています。
日本で娘、カリナさんを出産
デヴィ夫人は、1967年(当時30歳)に人道的措置という理由から、日本への一時帰国を許され、日本で娘のカリナさんを出産されています。
出典:デヴィスカルノオフィシャルInstagram
スカルノ大統領が終身大統領の身分をはく奪され、インドネシアに戻れる情勢ではなくなってしまったデヴィ夫人は亡命先に日本を希望するのですが、受け入れられず…
やむなく、デヴィ夫人は、ニューヨークを経由してフランス(亡命者に寛容)のパリに亡命したのでした。
1970年の6月、スカルノ大統領が危篤だと知らせを受け、自らも危険を承知でインドネシアに向かいましたが、結局、大統領と娘カリナさんの対面は一度も叶わなかったのです(T_T)
フランスへ亡命後、社交界デビュー
亡命先のフランスでも、デヴィ夫人の大統領夫人という地位と財力、若さと美しさ、ただ一人の東洋人であったことが幸運となり、彼女の後の人生を美しく彩り続けます。
美しさと知性で「社交界の華」「東洋の真珠」と謳われる
幼い頃から、フランス、イギリス、ロシア、ドイツなど、世界の文学作品が大好きで夢中になって読んでいたデヴィ夫人。
『赤と黒』を読めばレナール夫人になりきり、『嵐が丘』を読めばキャサリンになりきり、『戦争と平和』を読めばナターシャになりきり…。知的な想像の世界に浸ることが最大の楽しみだったといいます。
デヴィ夫人曰く「社交界とは、王侯貴族など上流階級の血筋が催す交流の場」のこと。一般人や政治家、芸能人などの人達が開催するものとは区別されるらしく…
また、女性にとっての社交界は、美と知性を競うところ。

社交界における女性は、レディ=華(はな)なんですね。
紳士を楽しませ、雰囲気を彩れない女性は必要とされない((((@Д@))))
デヴィ夫人曰く、社交界で臆することなく悠々と振る舞えたのも、知的文学から得た感性やコパカバーナでの経験によって、自分がどう振る舞うべきか頭にインプットされていたからだと。
はぁ、すごい説得力(*ˊᵕˋ*)
実業家としても成功、デヴィ夫人の生きる力
フランス亡命中にスカルノ大統領が亡くなり、これから幼い娘とどうやって生きていくか、という経済的な不安がのしかかったデヴィ夫人が選んだ道とは。
それは闘いの始まり。
娘を一人前に育てあげるため、「負けるものか」と勇気を振り絞り、国際的なビジネス・コンサルティングの仕事を始める決心をするデヴィ夫人。
当然、そんな業界で働いた経験もなく、正真正銘ゼロからのスタート。猛勉強は当たり前。状況、立場、人脈。持っているものは全て利用して、持ち前の不屈の精神と根性で、またも新たな人生の開拓路を切り開くデヴィ夫人。
インドネシアでの苦しい闘い
パリへ亡命してから12年後の1979年。
再びインドネシアで生活する道を選んだのは、一人娘のことを考えたから。
デヴィ夫人はスカルノ大統領の妻として、カリナさんの母として、娘にインドネシア語を学ばせ、インドネシアの歴史や文化を継承させなければと思っていました。スカルノ一族、7人の異母きょうだいを家族愛で結んでやりたいという想いもあったと。
たったひとりでインドネシアに戻ったデヴィ夫人。
当時は、スカルノ大統領を失脚させたスハルト政権の最盛期。
大統領と過ごした宮殿も、贈られた不動産も、全て接収されていました。
そんな状況下でデヴィ夫人は会社を設立し、従業員を抱え、フランス、スペイン、イタリア、イギリスなどの会社のエージェントとしてビジネスを始めたのです。
「スカルノ大統領の後ろ楯がなくても立派に生きていることを証明するために、絶対に成功しなくては」というプレッシャー。無我夢中で働いた甲斐あって、会社は石油や天然ガスプラントの入札など大きなプロジェクトにも関われるほどに成長しました。
デヴィ夫人は、自らの経済力でジャカルタの一等地であるメンテン地区に白亜の豪邸を建設。彼女はようやく、彼女自身の力で経済的自立を成し遂げ、自信を手にすることになったのです。
本当に、スカルノ大統領を心から敬愛しておられたんですね。
社交界で人気を得たデヴィ夫人ですから、紳士と恋に落ち、再婚する道もあったはず。
それでも、第二の祖国、インドネシアとスカルノ大統領への愛と誇りのために彼女は闘ったんですね。
日本のお茶の間に降臨
インドネシアでの事業を成功させた後、デヴィ夫人はニューヨークに移住。
2000年代からは、ニューヨークと日本を行き来するようになり、今日ではテレビで過酷なロケでも活躍する“お茶の間の顔”に。随一の80代女性タレントですよねw
年齢を重ねると、誰でも“新しいこと”や“挑戦”には消極的になるものですが、デヴィ夫人は「常に18歳の気持ちで興味と好奇心と探究心を持って臨んでいる」そうです(°∀°)
まとめ
いかがでしたか?
今回は、デヴィ夫人の若い頃についてリサーチいたしました。
彼女にあった幸運は、ズバ抜けた美貌と度胸と努力家であったことでしょう。
80歳超えとは思えない美貌とスタイル。(体型を甘やかすニットは絶対に着ないらしい!!)
彼女のようには出来なくても、その思想や生き様は、彩り豊かな人生をプロデュースできるバイブルになると思いました!!
最後までご覧いただき、ありがとうございました^^
コメントを残す